[ 鏡花水月 ] 1章 陽景
青く晴れ渡った空、夏特有の入道雲が海の彼方にムクムクとわき上がっている。それに呼応するように鳴き続けている蝉の声―、それは典型的な季節の風物詩。(――夏、なんだなぁ…夏休みなんだから、当然か…)
そんな至極当たり前のことを、藤堂誓唯は呟いた。
窓を開け放っているクーラーもない木造の旧校舎、少し高台に建っているせいかそこからの景色は新鮮で、誓唯は長閑な気分で眺めていた。
(…あ――)
誓唯の髪が揺れた、まるで誰かがそっと彼の髪を払ったかのようで、誓唯は教室の中を振り返った。肩にかかるほどではないが中学生男子にしては少し長め の、彼の細く柔らかい髪。それを何かの気配が触れたような…。だが、そこにはペンを走らせ、ページを捲る友人達が立てる音と自分、それ以外の気配は当然あ るはずがない。ただ、気になるのは…。
(入ってきた時も思ったけど…)
普段は閉め切られているのか、埃っぽい教室内は何処かミステリアスな雰囲気はある。しかし何よりも一番その存在を主張しているのは黒板の真ん中に鎮座していた。
(鏡なんか、あるんだろう…?)
天井につくほどの高さのある、由緒ありげな大きな古い鏡。それが誓唯には不思議だった。その時、
(え――…)
鏡の中に誰かがいた、―ような気が誓唯にはした。有り得ないことにもっとよく見ようと眼を凝らしたが、鏡は元のようにただ室内を映しているだけだ。
(気の、せい…?)
そう自分に云い聞かせ、気を取り直してまた外に眼を戻した彼の隣で、バンっと机が叩かれた。
「クソッ、アチィー! ホント、ボロい校舎だよなァ。クーラーは仕方なくても扇風機ぐらいくれってんだよ」
「昭和初期の由緒正しい建造物だからな。コンセントもないんだろ」
呆れた声で不満を漏らすのは古杜護【こもりまもる】、そしてつねに冷静で、物知りな和泉怜【いずみさとし】。共に誓唯のクラスメイトで幼馴染みだ。
「んなわけあるかっ! 余計暑くなること言うなよな。誓唯、何呑気に笑ってんだよ。一人だけ涼しい顔しやがって」
「え、俺…?」
いきなり名を呼ばれて誓唯はキョトンとした顔で窓から視線を二人に戻した。
3人は私立湘南鎌倉学院、中等科2年に所属しているが、今彼等がいるのは鎌倉女子学院。二校は共に中等、高等、大学を持つ私立の名門校で、近隣の兄妹校として合同行事を行うことがあり、彼等は新学期に行われる学校交歓会の委員として出向いているのだ。
「古杜、それは八つ当たりってもんだぞ。誰を待ってると思ってる」
交歓会の為のアンケートやら資料やらをまとめる為に、せっかくの夏休みの初日に借り出させている。それも半ば物置き状態のような木造の旧校舎の一室での 作業では、早く終らせるにこしたことはない。誓唯も怜も自分の分は終っていて、護待ち、という状態なのだから怜の意見に誓唯も大いに納得だ。しかし怜はい つも一言多い。
「大体藤堂がぼんやりなのは今に始ったことじゃないだろ」
「それもそうだな。誓唯のボケはいつものことだもんな」
「ぼんやり、ボケ…って、ヒドイよ二人とも。確かにちょっとボーッ、としてかもしれないけど…――何?」
文句を言った誓唯を二人はニヤニヤとした笑みで見つめている。
「誓唯って、ほんと、からかいがいのある奴だよな」
「まったくだ、今どき貴重だぞ、その純朴さ」
「もう、いい加減にしろよな、二人とも! そっちが終らないと帰れないじゃないか!」
自分をいつもからかいのネタにして遊んでいる二人に、頬を赤くして誓唯が抗議する。その様子にまた二人は声を上げて笑った。
「フーム、何にしようかな」
「怜、後ろが仕えてるだろ、さっさと決めろよ」
ファーストフード店のレジ前で悠長に悩んでいる怜を護が後ろから急かす。
「古杜の奢りならどうせだから一番高のをと思ってさ」
「てめっ、そういうこと言うか! どけ、オレが決める。お姉さん、マックセット3つね! 誓唯もそれでいいだろ、席取っといてくれよ」
護は怜を押しやるとレジに叫び、誓唯に自分の荷物を押し付けた。
「うん、わかったよ」
「安上がりな店にしてやってるんだから、少しぐらい奮発してもいいのにな」
怒りまくっている護が可笑しくて、誓唯が笑う横で怜が残念そうにぼやいた。
結局、「後で何か奢る」という交換条件で誓唯と怜が手伝って終らせたのだが、3人が店に落ち着く頃には3時近くになっていた。
「あーあ、委員なんか引き受けるんじゃなかったぜ」
ハンバーガーにかぶりつきながら、護がぼやいた。交歓会の打ち合わせの所為で貴重な夏休みを奪われたと嘆くと、
「そりゃこっちの台詞だ。お前が立候補するからだろ。巻き込まれた方がいい迷惑だ。なあ、藤堂」
「そんなことはないよ。他の学校って、結構面白かったし…」
「藤堂…、人が好いのも程々にしないと、こいつをつけあがらせるだけだぞ」
「悪かったよ。だってさー、キレイなお嬢様達とお近づきになれるって、言われたんだよ。カップルが生まれる伝説になってるってさ」
彼等の学校とて名門とは言われるが、鎌倉女子学園はその上を行く、超お嬢様学校だ。そこの女子を彼女に出来たら男としては鼻が高いのだ。
「いたじゃないか、素敵なお姉様方が」
マックシェイクのストローを口にくわえながら怜が言うと、護は思いっきり顔をしかめた。
「四半世紀以上前の、だろ。誰の為の交歓会だよ、なんで生徒にやらせないんだよ」
打ち合わせに出て来たのは生徒ではなく先生達、それもバリバリの風紀担当の女教師だったのだから、護の恨みは深い。
「夏休みなんだから仕方ないって言われたろ。あのお堅い学校が簡単に男女交際のお膳立てをするわけがないってことだ」
「クソ、先輩に騙された!」
何もそれは今年だけではなく、毎年恒例であるという事実を知った護のやる気が一気に削がれたのは致し方ない。
「化粧濃くて香水臭いし、参ったよ。ああ、夢に見そう…」
若い男子相手と張り切ってきたとしか思えない女教師に、何かとまとわりつかれていた護はげんなりと顔を覆った。
「そりゃあいい。本当に夢に出て来たら、それはお前の運命の相手ってことだ」
「運命の、相手…?」
怜の云葉に反応したのは誓唯だった。何故かそのフレーズが引っかかった。
「ああ、夢は潜在意識の現れ、心の奥底では望んでることだったりするってのは通説だからな」
「うわー、やめろっ! オレは年増は嫌いだ! 昔の美人より今のカワイコちゃんがいいんだよ!」
「………」
「どうした、藤堂―?」
大袈裟に嫌がる護の横で何事か考え込んでいる誓唯を目敏い怜が気付く。
「そう言えば、今朝…何か――変った夢、見たんだ」
「へえ、どんな? 珍しいじゃん」
「そうだな、あまり藤堂って、夢見ないんだろ」
「うん、確か…――」
二人に促されるまま、誓唯は記憶を探るように、口に手を当てて俯いた。
頭上には有り得ないほどの大きな満月と、果てのないほど暗く深い色をたたえている海。そしてその水面を揺らすのは――
そこまで思い出したところで、突然に幕が下りたように彼の頭の中は真っ白になった。パッ、と顔を上げた誓唯は身を乗り出して彼の答えを待っている二人に向って、
「――忘れちゃった」
エヘ、と無邪気な笑顔で誓唯は云った。
「だーっ、このボケがー!!」
「まったく、藤堂らしいというか」
護はテーブルに突っ伏し、怜はズレた眼鏡を直した。
「この頭か、この頭がそういうボケをほざかせるか!」
「痛い、痛いって、護。そう、そうだ、鏡! なんか鏡、見た気がする」
護に両の拳で顳かみをグリグリと挟まれ、誓唯は咄嗟に喚いた。
「まだ言うか! それって、さっきの教室のだろうが!」
「藤堂、苦し紛れにしてもわかり易過ぎるぞ。古杜もそれぐらいでジャレれるのはやめとけ、一緒にいて恥ずかしい」
呆れたように怜が言うと、護も一応治まりをつけたのか誓唯を放すと残っていたポテトを口に放り込みながら言う。
「見たっていうならそれでもいいけど。誓唯、わかってんの?」
「えっ?」
護にくらった100万ボルトの後を押さえながら誓唯はその意味深な口調に半泣きの眼を向けた。
「だってアレって、いかにもアッチ系の曰くが有りげじゃん、なあ、怜」
こういう調子で護gアッチ系といったら、それは幽霊や怪談の類いの話で、誓唯はまったくその手がダメなのだ。さらにに悪いことにこういうことにまでやたら詳しく、自他共に認める情報通の怜があとを引取った。
「ああ、七不思議の一つだろ。あの大鏡に姿を映すとは別の人物が映るって。オーソドックス過ぎて面白みもないけどな」
「お前そういうのホント詳しいよな。よその学校の七不思議なんかインプットしとくなよ」
「これぐらいは常識だ。護だって知ってる程度のものだしな」
云い合っている二人の横で、誓唯は静かに固まっていた。
(え、じゃあ…さっき、見たのは――)
一瞬にしろ自分が見てしまった影の事を思い出し、一気に顔が青さめている誓唯に構わず護が追い討ちをかける。
「オレ思ったんだけど、あの裏に死体が埋埋め込んであんじゃないのか。あんな大鏡、黒板のど真ん中にあるなんておかしいじゃん」
「あの壁の薄さで絶対それはないな。古杜は何だか少年の事件簿とかの読み過ぎなんだよ」
「人の愛読書をバカにすんな。じゃなくて、あの裏じゃなくても敷地内に埋めてあるとか。それが夜な夜な映し出されて…」
「二人とも、もう遅いし、帰ろうよ!」
際限なく盛り上がっている二人を誓唯が遮ると、二人はしめしあわせたようにまた笑った。
帰り道、別れ間際に護が突然思い出したように手を打った。
「そうだ、誓唯。今度貸したCD持って来てくれよ。妹が友達に貸したいっていってきてさ」
「あ、忘れてた。今日持って来てたんだ、――あれ…?」
鞄を開けた誓唯のその反応に護は鷹揚に手を振った。
「いいよ、ないなら今度で」
「えっと、…CDはあるんだけど…交歓会の資料が――、おかしいな、確かここに…」
バタバタと鞄の中を探す誓唯の手許を二人も一緒になって覗き込む。
「忘れてきたんじゃないのか? 誰かさんの所為で用務員さんに早く出ろって急かされたからな」
「悪かったなー。いいじゃん誓唯、あんなの。またもらえよ」
「でも、予定とか色々書き込んであるし…」
「じゃあ一緒に取りに行くか?」
煮え切らない誓唯に怜が言うが、ちらっ、とまだ陽が高い空を見た後で誓唯は頭を振った。
「ううん、一人で行って来る。すぐ戻れば開いてると思うし…」
「そうか。まあ誓唯ならすんなり入れてくれるだろうし、気をつけてな」
「うん、じゃあ」
踵を返して誓唯は駈け出していった。
その時、彼は長い黒髪の女性と擦れ違った。きちんと揃えられた前髪と後ろ髪、一見古風だが冷たいほどに美しい容貌は異邦人のようにも見える。長い黒髪と首元に巻かれた白いスカーフとの対比と相まって、とても印象的な女性だった。
だが、彼女の存在に―口許に浮かんでいた笑み、その意味にも―誓唯は気付かなかった。
駈けていく誓唯の足は意外に早い、みるみるその姿が遠去かっていく。女の子よりも可愛いと評されている彼が、みかけによらずタフであることを知っている護だが、
「大丈夫かな、アイツ」
「何が?」
呟いた彼に怜が訊ねる。七不思議の話で誓唯を怖がらせ過ぎたかな、と護は少しだけ反省していた。からかいは親しさの裏返しだ。護も怜も誓唯を好きだからこそ構ってしまうのだし。だが、反省しても結局口からでたのはいつものおふざけだ。
「襲われないかと思ってさ…」
そう冗談めかした護の云葉に、怜は笑うでもなくいつもと変らず飄々とした仕種で眼鏡の中央を押し上げた。
「女にか、男にか?」
「それってなんか、シャレになんねぇゾ、怜…」
好き勝手なことを云いながら、護と怜は小さくなる誓唯のその華奢な背中を見送った。何故だかそれは酷く心細そうに映っていた。
(陽が落ちる前で良かったけど、やっぱりイヤ、だな…)
老朽化のせいかギシギシと鳴る旧校舎の廊下を誓唯はビクビクしながら歩いていた。
何とか閉門に間に合い、用務員は心良く入れてくれた。よその学校の自分を信用してくれたのはありがたいことだが、誓唯にすればついてきて欲しかった。
「失礼、します…」
誓唯は誰もいないはずの教室に、恐る恐る声を掛けた。 夕暮れに染まり始めた木造の旧校舎の室内に差し込む陽の光も、昼間とは違う色合いに包まれている。
古めかしい木造ならではの匂いが一種独特の不思議な空間をより一層深めているように感じられた。入り口から首だけ覗かせて誓唯は教室内を見渡した。
「あった…!」
先程彼が座っていた机の上に学校交歓会の冊子を見つけ、安堵の溜め息をつく。ほっとしたのも突かぬ間、やはり中に入らねば取れないことに気付き、誓唯は少し躊躇する。護と怜のさっきの話を聞いた後では、どうしても大鏡のことが気になってしまうが、
(大丈夫、見なければいいんだから…!)
自分に言い聞かせると足早に教室の中に踏み込み、冊子を手にとった。
その瞬間、何かが空気を震わせた。
(え――?)
それは、まるで水の波紋が広がるような、不可思議な感覚。反射的に音―のように感じられた―方向を誓唯は振り返ってしまった。そして、誓唯の瞳は驚愕に見開かれた。
(誰か、いる…!?)
大きな古い鏡が自分以外の人影を映し出している。咄嗟に背後を振り返るがそこには誰もいなくて…いない筈なのだ。
鏡に魅入られたように眼を逸らせなくなっている誓唯の手から、バサリ…、と冊子が滑り落ちた。
(そん、な…バカな…!)
鏡は不思議な閃光を放ち、鏡面の中からそれはゆっくりと抜け出して来た。そう、それはまさに抜け出てくる、という云葉が相応しかった。
「き…み、君、は…――」
目の前で起っている事体が信じられない。誓唯は喉の奥から絞り出したような酷く掠れた声でそう云うのが精一杯だった。
そんな誓唯の混乱など知らぬ気に、鏡から現れた彼―それは誓唯と同い年くらいの制服を着た少年―はフワリと音も立てずに床に着地した。閉じられてた眼がゆっくりと開かれる。現れたのは意思の強そうな琥珀の瞳、そして―
「オレは繪委」
そう言って現れた彼はニッコリと、誓唯に向って屈託のない笑顔を向けた。
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