短夜

 それは一点の、赤い徴――。
 両の掌、両の足首に印される穿たれたような痕…。傷付いてなどいない筈なのに、滲み出してくる赤い液体が血溜まりをつくる。
 あの瞬間を、苦しみを…刻み込まれた記憶を、傷付いた心が繰り返す…―それはまるで、聖痕のようだった。



 
 数日前から続く、梅雨の狭間のある晴れた日。学生服姿の中学生が二人、藤堂と表札が掛かっている家の前に立っていた。

 ガチャリと鍵の回る音がして、閉め切られていた家の中に外の陽射しが差し込んだ。
「誓唯、鍵はここにかけー…ウワッ…と…」
 後ろを振り返りながら、踏み込んだ繪委は何かに蹴躓き、足を滑らせた
「繪委、大丈夫か!?」
 誓唯が心配そうに訊ねてくるのに、繪委は慌てて頭を振る。
「平気だ、ちょっと躓いた。…ったく、なんだってこんなところにボールなんかあるんだよ」
 自分の足が踏みそうになったゴムボールに悪態をつくと、
「自分が置いたんだろ。泥棒を引っ掛けるんだって」
 ホッとした顔の後、呆れたように誓唯は笑った。
「…そうか…。オレが仕掛けたトラップか―…」
 藤堂家は寮からバスで十分程度の場所にあり、二人は海外赴任で不在の両親に代わって家の管理に訪れることがある。前回は春休みで、その帰り間際に繪委が『泥棒が足を滑らすように』などと悪戯心を出したのだ。
「忘れてたのか? だからやめろって言ったのに。余所見してるから…」
 項垂れる繪委に追い討ちをかけて、誓唯は転がっているボールに手を延ばした。拾い上げた時、
「――っ…」
 微かに、誓唯は息を吐いた。指は不自然なほどに強張って、やっとのことでボールを掴んでいる。たったそれだけの動作ですら苦痛をもたらすのだろう。
「――やっぱ、湿ってるな、雨のせいかな?」
 繪委はまるで気付かなかった素振りで、家の中を見回した。
「…そうだな、しばらく風入れてないから…」
 下駄箱の上に何とかボールを置き、誓唯が答えた。
「やっぱ換気は大切か。せっかく晴れてんだ、二階の窓も開けてくるか」
「ああ、俺が…」
「いいって、階段上ったり降りたりするのは大変だろ」
 咄嗟に云ってしまった後、繪委はすぐに己の失言に気付いた。
「――そうだな、頼むよ」
 誓唯は少しだけ眼を伏せただけで、笑みを浮かべた。
「ああ、任せろ」
 ことさらに明るく云って、繪委は階段を駆け上がった。

 繪委は二階の部屋の窓を一つ一つ開けていった。
 最後は誓唯と繪委―二人の部屋ということになっている―部屋の窓を開け、空を見上げた。
 夕刻から雨との予報だが、青く晴れた空を見る限りではその気配は感じられなかった。だが、梅雨の中休みであることを考えれば当てにはならなかった。
 誓唯が中学に上がるまで暮していたこの家は、繪委にとっては数えるほどしか足を踏み入れたことのない場所だ。だが、本当はかなり見慣れた所でもあった。
 鏡の中からずっと誓唯を、その成長を見知っていたから…柱の傷ですら、どんな理由で出来たか知っていた。それでも鏡の内と外からでは大分印象が違う。普段は寮暮しなこともあり、何度来ても飽きなかった。
 ことに窓からの眺めなど、誓唯が実際に見ていたもの、それを今同じように眼にしているのだと思うとそれだけで嬉しい。

(……誓唯、今日はいつもより痛むみたいだな)
 ボールを拾っていた時の彼の様子が浮かんだ。玄関ではせっかく知らぬ振りをしたのに、不用意な云葉で傷つけて…。
 誓唯はバス停から家までの僅かな距離を歩くのも辛そうだった。昨日までの忙しさの疲れもあっただろうが、それを差し引いても、常よりも難儀そうに足を引きずっていた。
 だが誓唯は、いつもと同じように振る舞おうとしていた。繪委に気付かせまいと、心配をかけまいと…ムリをする。…思い起こせば、いつもそうだった。

 去年の夏――誓唯を苦しめた【試し】は終った。だが、それは二人にとって、別な意味での新たな試練の始りだったのかもしれない。異変は、繪委と誓唯の両方を襲ったからだ。
 人の住む現実に生きることは、清浄な世界からきた繪委の身にかなりの負担を強いた。雑菌だらけの人の世で、免疫も抵抗力も持たない身体は様々な病苦に襲われた。それは一種の、人間になったことの洗礼だったのかもしれない…。
 そして、誓唯もまた…その身に重荷を背負った。原因も治療法も不明の手足の麻痺と激痛に悩まされ――。それは深刻で、日常生活もままならず支障がきたす程だった。
 形の違う試練に苛まれる二人。だが、繪委自身は誓唯が案ずるほど辛くは感じてはいなかった。
 病は確かに苦痛を伴ったが、同時に一つ克服するごとに免疫力をつけてくれ、繪委はその度に丈夫になっていったからだ。大きな病気も数えるほどになった最近では、特にそう思えた。
 だが誓唯の場合は――一向に良くなる気配がない。麻痺こそ薄れてはきているが、痛みは続いているらしい。
 誓唯を苛むその痛みがどれほどなのか…本当のところは繪委にはわからない。誓唯は弱音を吐かない為、全ては医者から伝え聞いたことでしかない。繪委が知らされたのは、痛みにはかなり波があるということだ。
 絶えずつきまとう鈍痛と、それとは別に思い出したように訪れる激痛が、誓唯に苦痛を与えている。特に、酷い時には相当に辛いのはわかる。我慢強く、苦しんでいる様を隠そうとする誓唯が、隠しきれない痛みに形の良い眉を歪めるのを見る度に、繪委は無力な自分を思い知る。
 代わることが出来るのならば――何度念じたところで、それが叶うことはない。また、繪委がそう思っていると誓唯が知れば、余計に彼は苦しむのだろう。
 『人間になりたかった』
 そう繪委は誓唯に告げた。感謝している、これは繪委自身が望んだ結果でもある、そう何度も云った。
 その度に誓唯は良かった、嬉しい、と云ってくれる。それは心からのものではあるが、心の奥底で、彼は納得していない…。
(そうでなければ――アレが、起ることもない――)
 繪委は知っている、誓唯の心に刻まれ続ける刻印…その苦しみと痛みの、理由を――。
 幾ら云葉を重ねても彼が囚われている呪縛から解き放つことが出来ない。どうしたら誓唯の心が平安になるのか…それを繪委は知りたかった。



 明るい口調と軽快な足取りで二階に上がっていった繪委を見送って、誓唯は溜め息をついた。
(やっぱり、気付かれてたか…)
 当然だった。もつれないように、遅れないように…必死で歩こうとしていたが、繪委はそうと気付かせないように誓唯の歩く速度に合わせてくれていた。
 時折、自分に向けられる意志の強い茶褐色の瞳に心配そうな色が宿る。だが、決して繪委は、「大丈夫か?」とも、「無理するな」とも声をかけてはこなかった。
 それは多分誓唯の、気を遣わせたくはないという気持ちを尊重してくれたからだろう。だが、結局は気を遣わせている…。そう思うと情けなかった、自分がいつも、空回りしているような気がして…。


 毎年六月の第二土曜と日曜、私立鎌倉湘南学院では《湘南鎌倉祭》が催される。三年生の二人にとっては中等部では最後の、そして繪委にとっては初めての学院祭だった。
 それを無事に終えた昨日の夜――。
『準備とか色々大変だったけど、終っちまうと寂しいな…』
 慌ただしくて忙しい…とぼやいていたが、祭の後の気の抜けた寂しさを感じてか、繪委が呟いた。
『繪委は色々借り出されてたからな。ご苦労さん』
『ああ、まったく北条は人使い荒いよな』
『悪いな、忙しくさせて…』
 生徒会長の北条は、元チームメイトのよしみと二人が寮住いであるのを良い事に色々雑事を押し付けてきた。しかし手足の自由のままならない誓唯では出来ることが限られ、自然と繪委の割り当て多くなったのだ。
『そんなの誓唯のせいじゃないだろ。それにオレは結構楽しかったぜ』
 すまなさそうな誓唯に、繪委は本気でそう云っている。確かに色々面倒事も多かったが、見るもの体験すること、その全てが楽しくてたまらない、というのは見ていてわかったし、誓唯もそれは嬉しかった。
『そういやさ、明日の休み。何か予定あるか?』
 土日に掛かる学校行事の場合、翌日は振り替えで休みになる。当然、《湘南鎌倉祭》の翌日もそうなっていた。
『予定はないけど…』
 誓唯は少し口籠る。休日については彼なりに考えていることがあったのだが、今の口調では繪委にも何か計画があるようだったからだ。
『じゃあさ、明日は外泊届け出して、家に帰らないか?』
『――え…!?』
 誓唯が心底驚いて繪委を見つめると、繪委もその反応に困ったように慌てて云い募る。
『いや、ダメならいいんだ。休みたって一日だけだし、次の日は普通に授業があるもんな。急過ぎ…』
 捲し立てる繪委の云葉を遮るように誓唯は笑い出した。
『誓唯…?』
 訝しむ繪委に、一しきり笑った誓唯は息を整えて云った。
『実は俺も、同じ事考えてたんだ』
『なんだ。ビックリさせるなよ』
 繪委は少しだけ唇を尖らせ怒ったポーズを取って見せた後、彼と同じように声を立てて笑った。

 振り替え休日となる月曜は十四日、その翌日は六月十五日、――二人の誕生日だ。
『考えることは一緒か。誓唯の祝いだから家に行って…』
 嬉しそうに顔を綻ばせ話す繪委に、誓唯はゆっくりと頭を振った。
『俺だけじゃない、繪委だってそうだろ。俺達双子なんだから』
『ああ、――誓唯』
 誓唯の云葉に繪委は大きく頷き、照れ臭そうに鼻を擦った。

 そう、今日のことは二人共が同じことを考え、計画したことだ。だが、こんな風に隠れ家に逃げ込むように二人だけで過ごすことが本当にいいのか…誓唯は考えてしまう。
 満足に身体の動かない誓唯が様々なことを制限され、行動範囲が狭められるのは仕方がなかった。だが、繪委は病気にさえならなければ本当に行動的で、人懐っこくて明るい人気者だ。
 人付き合いだって嫌いではないはずなのに、繪委は常に誓唯を優先する。それが嬉しいと思う反面、それで彼を縛っているような…気もしていた。
 それでも二人だけで祝いたかった、それも誓唯の本心だ。世界も自分も選べなかった彼がただ一つ求め、その存在を望んだ掛け替えのない兄弟の、初めての誕生日を…。
(俺は我侭で――)
 誓唯の思考を、階段から降りてくる足音が引き戻した。
「誓唯、風入れて来たぞ」
「ありがとう。今、お湯も沸いてるからコーヒーでも入れるよ」
 屈託のない繪委に、誓唯も笑顔で答えた。


「今日は掃除とかしなくていいよな?」
「いいよ。その代わり今度来た時は…」
「二倍だろ。わかってるって」
 繪委の確認に、誓唯も苦笑し、大きく頷いた。
 二人が実家を訪れる時は家の管理を兼ねるので、掃除をしたり風を入れたり、そういった雑事の為に結構慌ただしい。
 しかし今回の目的は二人で静かに記念の日を迎えること。だからのんびり、少し怠惰に時を過ごして構わない、そう決めていたのだ。

「なあ誓唯、アレ、また見ていいか?」
 繪委が両手を合わせて拝むように云ってきた。家にあるビデオテープを観ることは繪委の楽しみなのだが、時間に余裕がある時しか誓唯が許可しない為、今日はまたとないチャンスなのだ。
「そんなに下手にでなくてもいいよ」
 誓唯も機嫌よく答え、ビデオ棚から迷うことなく取り出した一本をセットした。繪委が何を観たいかは聞かなくてもわかる。
「これ、これだよ、見たかったんだ!」
 映しだされた画面に繪委が嬉しそうに声を上げた。それは誓唯が以前に録画しておいた有名なサッカーアニメのビデオだった。観た所まで進めてあったテープを、繪委は頭まで巻き戻し始める。
「また最初から観るのか? この前も観たじゃないか」
 もう何度も見ているのに、と呆れた誓唯にも繪委はまったく気にしない。
「いいだろ、好きなんだから。何度見てもあの試合には興奮するんだよ」
 そう云って頭に戻したテープを嬉々として観始めた。

 瞳を輝かせて画面に魅入り熱中している繪委に、誓唯は初めは付き合いで観ていた。しかし、緊迫した試合展開に本気で声を上げ、楽しむ繪委に影響されていた。内容を覚えている筈の誓唯でさえ、同じように自然と声を上げていた。
「なんだよ、誓唯だって人の事言えないじゃないか」
 お返しとばかりに繪委に笑われ、誓唯は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「……繪委につられたんだ。俺、部屋に行くよ」
「えっ…、図星だからって拗ねることないだろう」
 誓唯の態度に繪委が慌てたように云ってくるが、
「違うよ、俺も本の続きが気になるんだよ」
 誓唯は誓唯で、家に戻った時は父の書棚の本を読破するというのを楽しみにしていたのだ。そんなことで拗ねないよ、と答える誓唯に繪委もうっすらと顔を赤くした。
「そ、そうか…そうだよな」
 バツが悪そうに頭を掻いたあと、
「――もう少ししたら夕飯のピザ、頼んどくぜ。来たら呼ぶよ」
 手を振って、繪委は部屋に引き上げる誓唯を見送った。


 夕食を済ませた後も、思い思いの時間を過ごした。
 繪委はビデオの続きを見る為にリビングに残り、誓唯は父の書棚から借り出した本を読みふけっていた。
 いつの間にか雨が降り出していた。無音の誓唯の部屋に響いてくるのは車が走る過ぎる時に巻き上げる水音と、興奮した繪委が時折上げる歓声だ。
 雨の中に閉じ込められて、ほとんど云葉も交わさない、姿も見えない。それでも同じ空間にお互いがいることに安心しあう、そんな時間は静かで、心が落ち着く気がした。

 どれほど時間が経っただろうか、
「誓唯、そろそろ風呂入っちゃえよ。結構冷えてきたから」
 繪委が声をかけにきた。繪委はすでに済ませたのかパジャマに着替えていた。
「うん、そうするよ」
 時計はもう9時を差していて、誓唯は素直に答えた。
『乾杯ぐらいしながら、カウントダウンしようぜ』
 夕食の時、繪委は冗談めかして云っていた。思うように手足が動かない誓唯は入浴にも時間がかかってしまうから、それを見越して…。
(考え過ぎだ――こんなんじゃ愛想つかされるかな…)
 つい、悲観しがちな自分の思考を振り払い、風呂に向った。

(やっぱりケーキ…あっても良かったな)
 湯舟に漬かりながら今更ながらに思い付く。
 繪委も誓唯も甘い物がそれほど好きというわけではないが、誕生日のイベントといったらバースディケーキと決まっている。
 誓唯も考えないわけではなかったのだ。だが二人がいる寮の管理人は気の回る人で、誕生日の寮生がいると某かのお祝を考えてくれる。
『今年は二人だし、繪委くんは初めてだから奮発したよ』
 そうこっそり誓唯に教えてくれていた。だからこそ定番のイベントはそっちに任せ、二人で過ごす事を第一にし、質素でいいと考えたのだ。だが、
(お祝なんて、何度やったって良かったんだから…)
 繪委の喜ぶ顔なら、何度見たって良い。そう思えた。

「誓唯、出たのか? じゃあ早く来いよ」
 廊下にでた誓唯が涼む間もなく、繪委が呼び掛けてきた。声するのはリビングの方からなのだが、不思議なことに灯りが消えている。
「どうしたんだ、電気も点けな――っ」
 誓唯は、目の前の光景に僅かに瞳を見開いた。
 テーブルの中央に小振りのショートケーキが置かれていた。その上に蝋燭はないが、代わりのように小皿を台にして大きな蝋燭に火が灯してある。そして、
「どうだ? ちょっとは雰囲気でるだろ」
 繪委が悪戯っぽい笑みで、自分の演出を自慢するように左手で指し示し、誓唯をリビングに迎えいれた。
(――……)
 誓唯は云葉に詰まった。自分が彼にしてあげたかったことが、そのまま…そこにあったから…。
 いや、それは本当は誓唯が心の奥底でずっと欲していた光景。バースディケーキと嬉しそうに笑っている彼の兄弟がいて――。
 胸の奥と目頭が熱くなってくる。だがそれを知られるのは…少し恥ずかしくて、照れ臭かった。
「――ケーキなんか、何処に隠してたんだ。それにその蝋燭…」
「ケーキはピザ屋の安物。注文の時ついでに頼んだ。蝋燭は防災用だからシャレてないんだけどな」
「…防災…って、非常袋のか…っ!?」
「他になかったんだよ。仏壇用のよりはマシだろ?」
「――ったく、後で補充しとけよ」
 呆れた声を上げながら、繪委がしてくれた演出に誓唯の顔は自然と綻ぶ。暗くて表情が見えないことが幸いしてか、繪委は涙ぐんだ誓唯には気付かない。たとえ、気付かれていたとしても、構わなかった。


「こういうのってちょっとキャンプ気分じゃないか」
「そうかな――?」
 TVも灯りもつけず、蝋燭の灯りの中でケーキを食べ、
「オレ結構憧れてたんだよな、みんなで枕投げしたり…」
「それは…修学旅行だろ。それにうちの宿泊はホテルだから、大部屋にはならないよ」
「チェッ、人の夢に水差すなよ」
 揺らめく焔にぼんやりと照らし出されるお互いの姿を前に、そんな取り留めのない話を飽きることなく続けた。
 寮でもたまに話し込んで夜明かしをしてしまうこともあったけれど、寮の部屋で過ごすいつもの夜とは違う、特別な夜だ。
 やがて時計の針が12時の針を差そうとているが、カウントダウンはしなかった。二つの針が重なりるの、ただ黙って待つ。ひっそりと、日付けが変わった、そして――
「繪委。誕生日、おめでとう」
「誓唯も、おめでとうな」
 どちらからともなくジュースが入ったグラスを軽く合わせる。二人はお互いの瞳の中に、照れくさそうに映る自分の姿を認め、笑い合った。
 双子の兄弟として誓唯と繪委が初めて、一つ年を重ねた夜だった――。


「…――誓唯…?」
 誓唯の首が傾いだ気配に、繪委は静かに声をかけるが答えはなかった。
 一緒にビデオを観ながら眠り込んでしまったらしい。その誓唯に繪委は毛布をかけてやる。
 傍らの誓唯の寝顔を見守る繪委の表情は、優しく、同時に険しかった。繪委はあることを怖れていた。だから、眠れずにいた。
 そして、その怖れは現実のものとなる。

「……ぅ…」
 小さな声が上がった。同時に穏やかな眠りについていた誓唯の眉が僅かに潜められた。
(やっぱり、今日も――)
 キュッと唇を噛み締める繪委の目の前で、それは顕われた。

 誓唯の掌の中央…少し落ち窪んだ真ん中に小さな…赤い点が浮かんだ。両の手、両足首にも…それは浮き上がっているはずだった。
 かつて、誓唯を拘束し、選択を突き付けられたその時の楔の―鏡に磔られ―両手両足に打込まれた……戒めの痕そのままに。
 何故、こんなことが起るのか誓唯自身は、気付いていないのだ…。


 繪委がそれを気付くことになったのは本当に偶然だった。
 期末試験の前日、一緒に勉強していた誓唯がいつの間にか眠り込んでいた。
『誓唯、寝るんなら部屋に…』
 壁に凭れて寝ている誓唯を起そうと、その肩に手をかけた繪委の目の端が何かを認めた。
(――え…!?……)
 誓唯の掌が赤く、染まっていた。生々しい傷痕そのままに、両の手に血が…浮き出ている。その異様な現象に繪委は一瞬云葉を無くした。
『―――あ…』
 何が起っているのか理解出来ず、やっと息を吐く。と、その繪委の気配が誓唯の覚醒を促したのだろう。
『…繪委…? 俺、寝ちゃったか…』
 寝ぼけ眼で瞬きをし、誓唯が目を覚ました。その彼の手にはもう傷はなかった…。
『どうしたんだ、変な顔して――』
 知らずに誓唯の顔を凝視していた繪委に、訝しむように訊ねてくるのに繪委は慌てて頭を振った。
『いや、オレも眠いみたいだ……誓唯も部屋に戻って寝とけよ』
 その場を取り繕い、誓唯を部屋に戻らせたが…繪委はもう眠る事は出来なかった。
 
 聖痕現象――、後になって繪委はそんな云葉を知った。
 人の罪を背負い磔にされたイエス…その身が受けた苦しみを、聖者や信仰の厚い者が自らの肉体に再現する、―神の御しるし―そう呼ばれるもの…。
 だが、聖痕現象の多くは強烈な自己暗示が引き起すものだとも云われる。脆弱な心や、強すぎる信仰心が自らの肉体を傷つけ、血を流させるのだと――。

(でも、誓唯は――違う筈だ…)
 繪委はそう思いたかった、しかし――。
 誓唯の身が無意識に再現しているのは、想像ではない、実際に彼の身に起ったことだ。経験した傷、苦痛…。あの時の苦しみを心が、身体が…忘却することを許さずに、繰り返し刻んでいる。
 誓唯の両手、両足に麻痺を、激痛をもたらしているのは彼の心――……。
 それが真実だとしたら、あまりにも辛すぎる。

(誓唯は、知らない…)
 告げる気もなかった。もちろん、医者に話すことも同様に意味がなかった。それは医学で治せるたぐいのものではない…。

『身体の傷はいつか癒えるし、心は喜びを感じることだってできるさ』
 いくつもの病気を併発していた彼に誓唯は云った、なのに…。
(オレにはそう言ってくれたのに、お前自身が何もわかってないじゃないか――)
 深く、強く、誓唯の心に刻み込まれた傷み、それが癒えない本当の原因を…多分、繪委は知っている。
(お前にそうさせているは、オレ…なんだな――)
 それは自らの存在の否定だ。繪委が本当にただの人間であれば認めることは出来ないだろう。だが、繪委はかつては人間とは違うものであった。だからこそ、その理解を受け入れることが出来る。
 誓唯は兄弟として繪委の存在を望んだ。だが、それが【試し】―の失敗―によってもたらされたものであることも――知っている。
 沙耶によって簡単に書き換えられてしまう人の記憶の不確かさ、絆の曖昧さ。己の存在を、人間を――全てを信じられなかった自分自身を、誓唯は許せないのだろう。
 彼の魂は無垢で、純粋で…汚れがなかった。その本質は【試し】によって罪を刻まれたとしても変わりがない。
 だからこそ、自らの願いを、一方的な欲望だと断罪してしまう…。欲望は、罪…誓唯の心にそう刻まれているから。
 誓唯には話せない。話したところで、出口のない状態では一層誓唯を苦しめる…。それは誓唯自身が克服しなければならないこと…。そして、導けるのは、繪委ではない――何故だか、そんな気がした。
 そう理解している自分が繪委は少し寂しかった。それでも彼は自分の役目を、為すべきことを承知していた。
(オレに出来るのはお前を見守ることだけだ。今も、昔も――。だから気付いてくれ、誓唯…)
 試練も、運命も、自分を傷つける他人、様々な出来事も――受け入れ、許すことの出来る誓唯が、たった一つ許せないのは自分自身だ。誓唯は身勝手な―そうと思い込んでいる―自分を認められず、許せず、身喰いする馬のようにその身を傷つけ続ける――。
(許してやってくれ、自分を…。大事にしてくれ……そうすれば――)
 繪委は眠る誓唯の顔に静かに顔を近付けた。固く閉じている青い瞼にそっと唇を落した、その眠りを妨げぬように――。



「――繪委、そろそろ起きないと間に合わないよ」
 誓唯は眠り込んでいる繪委の肩口を揺り動かした。何度かその動作を繰り返すと、繪委はうっすらと目を開けた。だが、
「…悪い、…もう、5分――寝かせくれ…」
 すぐに眩しそうに目を閉じて、繪委は毛布を頭から被り直した。
「あ、繪…っ」
 誓唯は慌てて再び起そうとしかけ、溜め息をついた。
「――仕方ないな、5分たった必ず起きろよ」
 そう告げて、朝食の用意をする為に誓唯はその場を離れた。そして、
「おはよう…誓唯――」
 約束した5分を2分オーバーして、大欠伸をしながら繪委がのっそりとキッチンにやってきた。
「おはよう、繪委。先に顔洗ってこいよ。少しは目が覚める」
「そうする…。オレ、コーヒーは…」
「ブラックだろ」
「うん、サンキュ」
 短く礼を云って繪委は再び欠伸をした。

「うー、まだ眠いぜ」
 トーストを齧りながらぼやく繪委に誓唯は軽口を叩いた。
「ビデオ観てて夜更かししたんだろ? キリの良い所までやめられないのはわかるけど…」
 誓唯の云葉には咎める響きではなく、からかうような親しさが籠っていた。繪委はその彼を一瞬複雑な表情で見て、そっと息を吐き、優しく笑った。
「わかるか? 熱中しすぎちまった。で、せっかく寝たと思ったらもう朝だ…まいったぜ」
「当り前だよ、今は一番陽が長いんだ。昨日だって7時過ぎまで明るかっただろ。昔から短夜って言うくらいだからな」
「短夜…?」
 聞き慣れない云葉を、繪委が訊ね返した。
「夏の季語だよ。夜が短くて、夜明けが早い…、何か、そのまんまだな」
 云葉の意味に自分で突っ込み、可笑しそうな誓唯に相槌を打ちながら、繪委は口の中でそれを繰り返した。
「短夜…か、良い云葉だな」
「そうか? どうでもいいけど、手が止まってるよ」
 感慨深気な繪委を誓唯は訝しそうに見て、食事を促した。
「ああ」
 繪委も短く答え、不器用な手付きでトーストを齧っている誓唯をさり気なく見つめた。

(――夜は短く、朝は早い。……明けない夜は、ないんだ)
 誓唯の心が、自分自身を許せることが出来た時、彼の心が刻む徴も消えるのかもしれない。
 今、誓唯は長い夜に留まっている。まだ時間はかかるかもしれない。長い夜も、苦しみも…簡単には終らない。それでも、その日は必ずやってくる。
 人間は、誓唯は――その強さを持っていると繪委は知っているのだから。
 その時を急かさずに見守ろう。誓唯と共に生きる、たった一人の兄弟として…。

 それは繪委が十五歳の朝に立てた決意、密かな…誓いだった。


Fin.

★後書き★

これは本家設定、《誓唯と繪委の初めての誕生日に寄せて》なのですが…何か、変なものに仕上がった気が…(^^;)。
本家部屋第一作、「菖蒲」はライトに優しめ(あれでもね…)に、を心掛けました。しかし「短夜」は書いているうちに自分でも困惑…。何とか当初予定した、《お互いを想いあう優しい誕生日の夜(?)》にもっていこうと努力しました。が、…立て直せたでしょうか…非常に不安です。
本家部屋なのに気付けばまた色々設定捏造しております。す、すみませぬぅ(__)。
ちなみに『鏡花水月』は、違う誓唯の苦しみ(^^;)を設定(書いてる時から張ってた伏線なので、まあそのままに…。繪委は、本家設定を流用――かなぁ…)
鈴蘭

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