忘れ貝
その夜、一夏の家庭教師に来てくれていたのは誓唯だった。母が持ってきてくれたコーヒーで小休止をしている時、
「一夏ちゃん、あれはどうしたの?」
棚に拡げられてるのは貝殻に目を止めて目を止めて彼が云った。
「あ、はい。綺麗な色だったので拾ってきたんです」
慌てて一夏は答えた。家族旅行先の浜辺で見つけた、色の綺麗な貝を棚の上に並べてあったのだ。
それを誓唯に気付いて貰えたのは嬉しい反面少し恥ずかしい。何の変哲もないありふれた貝を拾ってきてしまって、
(子供っぽい…かしら――)
そんな考えが一夏の頭を掠めた。
子供っぽい…それは最近の彼女が―誓唯の前では特に―意識するようになった気持だ。だが、
「そうだね。綺麗な、忘れ貝だ」
一夏の不安を拭い去る優しい微笑みに思わず頷きかけ、一夏はふと我に返る。
「――忘れ、貝…ですか?」
聞き慣れない云葉を繰り返す一夏の疑問に答えるように、彼は貝を手に取り彼女の前に示す。
「二枚貝の片方の殻だけ残ったもののことだよ。身につけていると憂苦を…辛い事とかを忘れられるって、昔の人は考えたんだ」
「そうなんですか…」
素直に一夏は感心し、心地良い誓唯の声にも知らずに聞き惚れる。でも少しだけ疑問が沸く。
「……忘れたいことなんて、あるんでしょうか…」
一夏にはまだ、忘れてしまいたいほどの辛い事は思いもつかない。
だが、そう呟いた一夏に、誓唯が少しだけ瞳を伏せたことに彼女は気付く。口許は笑みのまま、けれど少しだけ寂しいそうで…。
(誓唯さんにはあるんですか――)
忘れたい事が、辛い事が…。その問いかけを口にするより前に、
「これにはもう一つ、別の言い方もあるんだよ。それは――」
誓唯は云いかけ、何かを思案するようにジッと見るので一夏の頬が少し染まった気がする。
「一夏ちゃんに宿題、出そうか」
今度は面白そうな口調で、彼は告げた。
教室について早々に、自分の席についた一夏は鞄の中から丁寧にティッシュで包んである貝を取り出した。
『【忘れ貝】を詠んだ歌を調べる』
それが誓唯が出した宿題だった。別に貝自体を持って来る必要なかったが、誓唯の手が触れたこの貝を通して彼のことを考えていられるから…そんなことを無意識に考えていたのかもしれない。
「一夏ちゃん、おはようございます」
登校してきた隣の席の未知留から呼び掛けられ、一夏は幸せな気分のまま顔を向けた。
「おはようございます、未知留ちゃん」
「一夏ちゃん――どうかしましたか」
「え? 何がですか」
「顔にしまりがないですよ」
「ほ、本当ですか!?」
未知留の云葉に慌てて顔を隠す。そんなニヤけていたとは自覚がなかった。
「冗談です。それ、どうなさったんですか」
軽く返した未知留は、まだ頬を両手で隠したままの一夏の机の上に置かれた貝を見る。
「あ、はい……忘れ貝を詠んだ歌を調べに図書館に行こうと思って…」
やっと気を取り直して答えた一夏に、未知留はすぐに納得したように頷いた。そして、
「“寄する波打ちに寄せなん我が恋ふる人忘れ貝下りて拾わむ”」
とまさに謡うように呟いた。
「未知留ちゃん…それ…」
呆気にとられた一夏を他所に
「『土佐日記』です。“吾背子に戀ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ戀忘れ貝”は『万葉集』で、他にも――」
「み、未知留ちゃんっ!」
一夏は慌てて未知留を遮った。博学は未知留のことだから、すぐに教えてくれるだろうけれど…それではズルをしたようで誓唯に顔向けが出来ない。
「あ、後は自分で調べます…、だから…」
必死な一夏の云葉に、未知留は全てを察したように微笑みを浮かべた。
「わかりました。出過ぎた真似をしてすみません」
「そんなことないです。教えて下さってありがとうございました」
一夏は心からそう云った。未知留は『他にも…』と云ったからまだあるのだろう。それならば…。
「一夏ちゃん、未知留ちゃん、おはよう!」
元気な声で二人に呼び掛けたのは、皐月だった。そして、一夏達が挨拶を返す間も与えずに、
「何二人ともお辞儀しあってるの?」
可笑しそうに続けた。
「何でもありません、ね。一夏ちゃん」
「は、はい。皐月ちゃん、今日もクラブの練習ですか」
「うんそう。試合が近いからね。…蛍子はまだ来てないんだ。今日未知留ちゃんと一緒に日直でしょ」
はつらつと答え、仲の良い友人のことを気にかける皐月に一夏も未知留も笑みになった。
「まだ時間がありますから大丈夫ですよ。それにわたし一人でも…」
未知留が立ち上がった時、おっとりとした蛍子の声が響いてきた。
「いやーん、遅れちゃった。あ、皐月ちゃん、一夏ちゃん、未知留ちゃんおはよう」
「暢気におはよう、じゃないよ。ほら蛍子、未知留ちゃんと一時限目の教材取りに行くんでしょ」
「わかった。ごめんね、未知留ちゃん。じゃあね、皐月ちゃん、一夏ちゃん」
すぐに鞄を置いて、蛍子と未知留は連れだって出ていった。唇を尖らせながら、妹を見送るような優しい瞳が皐月らしかった。
その彼女の目が机に置かれた忘れ貝に止まる。
「あー、綺麗な色。その貝どうしたの?」
掌にのせて眺めている皐月に、一夏は見つけた自分を褒めてもらっているような誇らしい気持ちで答えた。
「はい、忘れ貝って、宿題なんです」
「何、忘れ貝…とか、そんな宿題あった?」
「違います。誓唯さ…あ、いえ…忘れ貝の歌を調べるって、私だけの宿題です。こういう風に片側だけ残った貝をそう呼んで…持ってると辛いことを忘れられるんだそうですよ」
皐月に急いで訂正する一夏は律儀に宿題の内容まで説明した。すると、
「―――へぇ…そうなんだ」
途中まで興味深そうに聞いていた皐月の瞳が急に翳りを帯びた。
(……皐月ちゃん?)
どうしてかはわからないけれど、一夏は皐月が苦しんでいると感じた。そう思った途端、
「それ、皐月ちゃんに上げます」
一夏はもうその言葉を云っていた、何のためらいもなく。
「な、何いきなり? これ、一夏ちゃんの大事な物なんじゃないの」
「大事なものだから貰って欲しいんです。――ご迷惑ですか…?」
戸惑うような皐月だったが、一夏の真剣な眼差しと訴えに小さな溜息をついた。そして皐月が口を開こうとした時、
「皐月ちゃーん、手伝ってーっ!」
廊下から響いたのは蛍子の声だ。
「もう、恥ずかしいなぁ…」
そう少しだけ頬を膨らませ、呼ばれた方に向う皐月。そして、
「――ありがとう。一夏ちゃん」
忘れ貝をそっと握り締め、皐月は小さく呟いた。
「誓唯の奴、一夏ちゃんに宿題出したんだって? 大変だな」
その夜に訪れたもう一人の家庭教師、繪委が訊ねた。
「いえ、すぐに調べられましたから…」
「さっすが、一夏ちゃんだな。じゃあ、オレも宿題出そうかな」
「え、わ…わかりました。頑張ります!」
勢い込んだ一夏の答えに、繪委は「頼もしいな」と笑った。
自分の答えが変だったのかと首を傾げる一夏。そんな彼女を見る繪委の瞳に、ふと誓唯の優しい笑みが重なった。
(――貝を上げてしまったっていったら、どう思いますか…)
誓唯は少し驚くかもしれない…でも、きっと――
一夏の許には、もう誓唯が『綺麗だ』と云ってくれた忘れ貝はない。でも、後悔はしていなかった。
Fin.
※ザ、女の子祭! を一人で開催。しかし、桃の節句との関係は皆無(四季をテーマにしてるのは双子だけだだから…許して下さい)。ただ単に女の子を出す、ことだけを目的としております。双子の出番、少なくてすみません…(特に繪委… ^^;)。
鈴蘭
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